平和を祈ろう第3弾
- true-meals
- 2016年1月31日
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昨年は、戦後70年。今年は71年目。 この節目に、平和な世界のために何かできることをしたいという想いから、全3回のお話会を開催しました。

お話をしてくださったのは来住新平さん。 第1回目では、子どもの頃の戦争体験。これは戦争の「被害」の面です。 第2回目では、南京大虐殺の事実。今度は「加害」の面のお話でした。 そして第3回、「友好と平和」という視点からお話しいただきました。

1940年、緊迫した戦争の中で、日本は中国に攻め入っていきます。 その中で多くの中国の方がいのちを失いました。 日本人の栫美保子(かこい・みほこ)さんは当時4歳、井陘炭坑で働いていた父と、7ヶ月になる妹を抱えた母を八路軍による攻撃で亡くし、1人泣き叫んでいるところを中国の兵士に発見されました。 発見した楊仲山兵士は、上官に指示を仰ぎます。当時の張文林党書記が「子どもには罪はない」として聶将軍の指揮所にとどけるよう、命令を下しました。(後に、それを指揮した張文林党書記はそのことが密告され、処刑されてしまいます。) 楊仲山兵士は、美保子さんの手をとり、160kmの道のりを、砲弾の飛び交う中歩き、聶将軍の指揮所のもとに届けます。 聶将軍は、日本に返すのが一番この子にとってはよいと判断し、 日本兵に手紙を書き、信頼おける農民の方に美保子さんを託しました。 美保子さんは生きていた7ヶ月の妹・留美子さんに途中合流します。 途中立ち寄った村で、留美子さんに母乳を与えてくれた女性もいたそうです。(残念ながら、留美子さんは道中亡くなってしまったそうです。) 美保子さんが日本に帰り着くまでに関わった中国の方は少なくとも130人はいたという話です。

このような経緯をたどって、美保子さんはようやく日本へと無事に戻ることができました。道中を案じ、美保子さんの頭をなでる聶将軍の写真は胸にこみ上げてくるものがありました。 こうして終戦を迎え、1980年7月。 多くの方々のはからいもあり、美保子さんは助けてくださった聶元師と対面することとなりました。また、2005年 には、160kmもの道のりを命をかけて一緒に歩いてくれた楊さんとも再会を果たします。 憎しみも悲しみも国境も越えて、助けられた尊いいのち。 戦争の渦中にあっても、人間は根底には人を思いやり愛する心があるのだということを気づかされました。 そして、中国の方々の温かい人間らしい心を、わたしたち日本人は決して忘れてはならないと感じました。

戦争を知らない私たちの世代が今、親になっていきます。 私たちがこれから、次の世代に何をどのようにつたえていけばよいのか、深く考えさせられるお話会でした。 戦争とは、何なのでしょうか? 確かに今日本で、爆弾が落ちてきたり、鉄砲をかついだりという場面は見ません。 しかし、 しらずしらずのうちに進められていく政治。 大事なことを隠して伝える報道。 農薬や添加物や放射能等、薄めてちりばめられた毒。 現在の日本は、果たして平和なのでしょうか? そんな想いも、浮かんできます。 この複雑な時代に生きる私たち。 しっかりと現実を知り、楽しい時間を愛する人たちと共有し、幸せに生きていかなければならないと思います。 戦争で犠牲になった方達、戦争体験を今伝えてくださる来住さんたちの想いを、心に刻んでいきたいです。 来住さんがこの事実を導き出すまでに、中国に何十回も足を運ばれました。一人一人の人を大切にされる来住さんだからこそわかった事実なのだと思います。 85歳になってもなお、未来の子ども達のために、いのちをかけて伝え続けてくださっている来住新平さんに心から感謝の思いでいっぱいです。 またご来場くださったみなさま、本当にありがとうございます。 ※1999年12月には、都城市と中国の江津市は友好協定を結びます。また2004年には都城友好記念館が、美保子さんが助けられた石家荘市井陘県洪河槽村に建設されました。 これらの感動の話をドキュメンタリー番組として都城市のBTVケーブルテレビがまとめたのが2006年。その年、NHKが主催するテレビ局がつくる番組の全国大会でなんとその番組が準グランプリに輝いたそうです。 素晴らしいです!
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